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建築の周縁でうろうろしてる人

時間感覚の感覚


映画『聲の形』 ロングPV

 

 

また異なる意味で凄い映画を観てしまったなぁという気持ち。最近なんか凄いしか言ってないけど、本当に凄いなぁと思うものばかりで自分が歯がゆいですね。

 

と言うわけで『聲の形』を観ました。

 

京都アニメーションの作品は『たまこラブストーリー』以来観てなかったけど、この作品はさらに凄くなってるなぁと思った(作品としては『たまこラブストーリー』の方が好きだったけど)。最近観た『君の名は。』がとてもアニメ的なアニメ映画だったとすると、この映画はとても邦画的なアニメ映画だった。劇中の演出における時間の速度がまったく違く、『君の名は。』がジェットコースターだとすると、『聲の形』はメリーゴーランドだろうか。結構もたっとしていて、話の展開相当に進んでいるはずなのに、そんな感じもしない(なにしろ原作7巻分を詰め込んでいるのだから)。また、話が不思議なくらい淡々と進んでいくので、原作未読の人にとってはこれはついていけるのかしらという気持ちにも。なぜだか分からないけど、視聴感が『リリィ・シュシュ』とか『リンダリンダリンダ』に近く、それは演出に起因するものなのかしらと思いつつも、『聲の形』に登場する人物造形にも起因するのかもしれない。原作でもそうなのだけど、共感できるのだけど共感できない、みたいなキャラクターへの不思議な没入感がある。一人のキャラクターに没入するわけでもなく、こいつの言ってることはわかる、あいつの言ってることもわかる、でもあのときこいつが言ったことが分からない、みたいな。そう考えるとすべての登場のキャラクターの心理描写に違和感がない『心が叫びたがっているんだ』とは対照的な作品でもあるなぁと感じた。すべての登場のキャラクターに共感できる部分もあれば、できない部分もある。でもよく考えてみれば他者に対して完全に共感できるなんてことはありえないわけで、この作品はそこの部分が見えていた。共感できる媒体であるはずのキャラクターが共感できない、理解しきれない部分を持っているせいで、この作品が「アニメ的」ではなく「邦画的」に見えたのだろうか。うーむ分からない。

不思議な視聴感でした。

でも、泣いた。

 

この作品には『養老天命反転地』が出てました。原作にも出てます。

 

『回路』黒沢清

 


映画『クリーピー 偽りの隣人』予告編

 

 

■あらすじ

「CURE」「カリスマ」の黒沢清監督が、インターネットの世界を舞台に巻き起こる恐怖を描いたサスペンス・ホラー。一人暮しで平凡なOL生活を送るミチ(麻生久美子)。ある日、ミチの同僚が自殺。勤め先の社長は失踪。次々に友達が、家族が消えていく……。一方、大学生活を送る亮介(加藤晴彦)にはインターネットを介して奇妙な現象が起き始める。 胸騒ぎを感じた亮介は、同じ大学で奇妙なインターネット・サイトを研究している春江(小雪)に相談を持ちかけるが……。

 

 

実家に帰ったときの楽しみのひとつは撮りためていたテレビドラマなり映画なりを観ることである。そんな訳で今回、少しだけ帰省した折にずっと観たかった黒沢清の『回路』を観た。今度『クリーピー』もやるので楽しみだ。2000年の作品であるが、上のあらすじに書いてあるように麻生久美子小雪とかなかなか豪華キャスト!というか黒沢清の定番キャストか、麻生久美子とか。

この前聞きにいった建築家・青木淳の対談で青木氏が言っていたように映画にはたとえそれが数秒のシーンだとしても強く印象に残るシーンを持つものがある。それが創作になにかしたの強い影響をもたらすことは充分あり得るだろう。そうした印象的なワンシーンを持つ映画(建築的に)を建築家の鈴木了二は「建築映画」と名付けた。鈴木は特に黒沢清の映画に対して「踊り場目線」というキーワードを呈示した。

 

「建築に対する感受性がずば抜けて高いからだろう、黒沢清の映画から刺激を受ける点は多すぎて上げ始めるときりがないのだが(中略)映画ではなかなか撮ることに成功しない東京という難しい都市を、いくつかの映画で黒沢清が撮ることに成功したことの大きな理由ではないかと思うのだ。それは黒沢清特有のキャメラの目線であって、一言で言うなら踊り場目線ということになる。黒沢清ほど踊り場を意識的に撮ろうとしている映画作家はいない。踊り場ならもちろんのこと、別段踊り場でなくても、そがまるで踊り場ではないかと思わせるような雰囲気に撮ってしまうくらいだ。」『マテリアル・サスペンス』

 

この踊り場目線とは一体なんなのか、それが具体的に語られることはない。踊り場そのものを撮ったものを踊り場目線とも言うし、踊り場を撮ってなくても踊り場目線である場合もある。かといって踊り場をただ撮っても踊り場目線ではない。

ここでは踊り場目線は東京を撮るということと関連づけられている。何故だろうか。考えてみれば、東京という街には多くの踊り場がある(なぜなら日本にはいわゆる「雑居ビル」が存在している。世界的に見ても踊り場の多さは顕著だろう)。ただその踊り場の存在意義は本来的な階段の装飾としての役割ではなく、限られた面積の中でより上へ上へ行くために「仕方なく」設けられ、できあがったものなのだ。そうした何とも言えない「宙ぶらりん」な存在であり、期せずして出来上がってしまった存在とも言える「踊り場」を撮ることは、計画的につくられたわけではなく自然と出来上がってしまった東京を撮るということに繋がっていくことということなのだろうか。東京の縮図としての「踊り場」。それが黒沢清の映画に現れる「踊り場」という存在なのだろうか。ざらついた感触の映像を観ながら、そんなことをぼんやり考えた。

 

余談だが、物語の展開として亮介(加藤晴彦)が新しく買ったパソコンが勝手にインターネットに繋がってしまう(当時はパスワードを入れて接続しないことにはインターネットはできなかった。パソコンはまさに「パーソナル」な機械だったのだ)ことを気持ち悪がり、恐怖を感じさせるシーンがあったが、現在の私たちは常に繋がっている状態で、もはやそのことを誰も疑問に思わない(この前久しぶりに観た『Another』でもヒロインの見咲鳴は携帯電話によって常に誰かと繋がりうる状況を「気持ち悪い」と言っていた)、今の世界はその当時とは全く違う世界なのだ。想像力が変質してしまった。繋がることに手順が必要だった時の世界の想像を私たちはもう想像できない。

5月1日〜5月8日

4月19日〜4月24日

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